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モーリス・ベジャール

  今は、コメントするのは難しい。なぜなら、どういうバレエにしたいか明確なヴィジョンがある一方で、創作の迷宮に迷い込んでいる状態だから。問題は、初日の前日にはその迷宮から無事に逃げ出しているかどうかだ。それにしても、光というのは実に特殊な存在だ。光があるから私たちはものを見ることができる。私はいつも光のこの問題にとらわれているんだ。私にとって発見だったことがある。聖書をみると、創世記の最初の章で、第1日目に神は“光あれ”と言う。すると光ができた。そして、第2日目、3日目に海、大地、草木が、6日の行程のうちの、4日目に太陽、月、星が創られた。太陽ができた時には海、大地、草木はすでにあったんだ。神が太陽の前に光を創ったのは驚くべきことではないか。私はそのことに魅了された。それが今回の出発点の1つだ。 local-keiba.com
 
  出発点、それは恐らく到着点でもある。私はずっと映画に夢中で、ダンス・スタジオで学ぶのと同じくらい、映画から多くを学んできた。かつてパリのシネマテークに通っていたし、ブリュッセルでもほとんど毎晩通った。ローザンヌでもね。奇妙なことに、最初は自分が生まれる前に作られた映画ばかりを観ていたよ。シュトロハイムやグリフィス、イタリア映画……。どうして映画なのか?シネマトグラフを発明したのがリュミエール兄弟だからだ。彼らはリヨンの工場でそれを発明したんだ。偶然にも、今回の舞台「リュミエール」の初日をリヨンで迎えるわけだが。だから、私はそこに形而上学的な光と、人々を映画の光に導く異なった光の側面を込めたかった。リュミエール兄弟を登場させるよ。オーギュストとルイをね。ルイはちょっとルイ14世のようでもあり、オーギュストはサーカスの道化師オーギュストのようでもある。当初、人々は映画に驚き、楽しんだものだが、同時に「遊園地みたいだ。サーカス以上のものにはならないだろうね」と言っていた。そんなわけで、リュミエール兄弟は2人のサーカス道化師みたいなキャラクターなんだ。
 
  いや、脚本はないよ。今のところは、音楽を基に作業をしているね。まずバッハの音楽がある。「ロ短調ミサ曲」「マニフィカト」は神聖な要素、偉大な純粋さを含む作品だ。それから私の友人、いや友人だった2人の歌手の曲を使っている。ジャック・ブレルとバルバラだ。バルバラは私にとってほとんど姉のような存在で、30年間頻繁に会い、共に仕事をしてきた。彼女とベニスで一緒に映画を撮ったこともある(『そして私はベニスで生まれた』(77))。私が目指すところは、バッハの抽象的で崇高な光と、友人たちが歌い上げる日常の光を1つにまとめ上げることなんだ。
 
  いや、ないな。一体バレエとは何か? ストーリーか、音楽か、ヴィジョンか。私は画家のアトリエで目にした彫刻を基にバレエを創作したことがある。ダンサーの存在あってこその場合も。ある少女や少年に心を奪われて、彼らと関わりながらバレエを創る。だから、必要なのは、出発点を常に意識し十分に生かしながら、他の要素はさほど重要ではないと認識することだ。ボードレールについてのバレエを創った時は、ワーグナーからピンクフロイドまで、120曲もの音楽を使用した。音楽映画のようだが、重要なのはボードレールだった。それに対して、「春の祭典」では、ストーリーも、情景も、衣装もなく、重要なのはストラヴィンスキーだった。そこにあるのは彼の音楽と動きだけなのだから。ダンサー、シルヴィ・ギエムとの創作の場合は、彼女が自分という存在を残しながらどんな姿に変化できるのかに着眼している。バレエの創作に取り組む際には、方向性を定める軸を見極めておくべきだと思う。今回の「リュミエール」の場合、それは光である。光が、バッハ、バルバラ、ブレルの音楽と共に、私の存在感を主張しているんだ。
 
  もちろんだ。私はいつも興奮する。そして、同時に不安感もあるし、その気持ちの方が強いかもしれない。神経がズタズタになることもある。それは今も変わらないね。